張 楊(ちょう よう、? - 198年)は、中国の後漢時代末期の武将、政治家。字は雅叔。并州雲中郡(現在のモンゴル自治区にあるフフホト)の人。「張揚」と記載される例もある。
河内太守となるまで [編集]
後漢の霊帝の時代、武猛従事となり并州刺史丁原に属した。上軍校尉(西園八校尉を指揮する)蹇碩に招かれ仮司馬となった。蹇碩が死ぬと何進に属し、故郷に并州に戻って募兵を命じられた。千人あまりの兵を集め、上党に留まって山賊を討伐した。初平1年(190年)の董卓の乱の時には上党太守を攻め、落すことができなかったので近隣の県を侵略し、兵は数千に膨れ上がった。
張楊は袁紹、及び匈奴の於夫羅と合流したが於夫羅が叛き、於夫羅は張楊を捕らえ、同行させた。袁紹は将麴義を派遣して攻撃し、於夫羅らは敗れたが、張楊を捕まえたまま度遼将軍耿祉を破って再起した。その後、時期は不明だが張楊は釈放されており、董卓から建義将軍・河内太守に任命され、河内郡野王県に駐屯した。
献帝・呂布支援と最期 [編集]
興平2年(195年)12月、献帝が李?の元から関東に戻ると、仮の都としていた安邑で合流し、安国将軍・晋陽侯に封じられた。張楊は献帝を連れて洛陽に行くことを望んだが、楊奉、董承、韓暹ら諸将軍が従わなかったので、任地の野王に引き返した。建安1年(196年)、献帝が洛陽で困窮したときには、張楊は洛陽に至り、飢えた献帝のために米、衣服を貢餉した。その後、外敵に備えるためと言って再度野王に戻り、このとき大司馬に任命された。
呂布と同郷の誼(呂布は五原郡出身)から仲が良く、呂布が董卓を殺して長安から追われたとき、呂布を保護した。建安3年(198年)、呂布が曹操と徐州で戦っていたとき、張楊は遠路であるため、直接には呂布の援軍に赴くことができなかった。そのような中で、同年11月[1]、家臣であった楊醜に裏切られて殺されてしまった。張楊の首級を曹操への手土産にしようとした楊醜は、同僚の眭固によって殺されている。翌建安4年(199年)、袁紹の支援を受けようとした眭固も曹操軍に滅ぼされ、残軍もそれに吸収された。
人物像 [編集]
『三国志』魏書張楊伝注に引く『英雄記』によれば、慈愛深く温和で、刑罰で威嚇することができない性格であり、使用人の謀反が発覚したときも、涙を流して、これを不問にしたという。その一方で、上党に進攻した時のことと思われるが、上党の名族陳氏、馮氏から婦女子と財産を略奪しようとしたこともある。これは、偶然そこに滞在していた常林の策略で阻止された。
物語中の張楊 [編集]
『三国演義』では、上党太守・第15鎮の反董卓同盟諸侯として登場する。なお、史実では、張楊は上党太守に就いたことがなく、逆にこの地位に在った董卓陣営の人物を攻撃している。史実では同郷の友の呂布とも戦うが、部将の穆順を討ち取られた。その後、献帝が洛陽へ向かってからの事跡は、『演義』でも史実同様に描かれている。
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